デザインは暮らしを良くする手段——その信条を胸に、「暮らし」を意識してプロジェクトをデザインし、「ヒト、コト、モノ」をつなぐ活動をしている萩原 修さん。拠点のひとつである「つくし文具店」では、オリジナル文具などの販売だけでなく、「ちいさなデザイン教室」を実施。また、「9坪の宿 スミレアオイハウス」「国分寺さんち」「ベースクール」など地域の拠点を数々企画運営しています。現在は明星大学デザイン学部教授として、学生たちに「デザインを学ぶ場」を提供する立場でもあります。

|至極の一言|
「面白くないまちを面白くしていくこと」に面白さを見い出せるといいなと思っています。

「教える」のではなく、「学ぶ場所を提供する」

崎谷:数々の顔をお持ちの萩原さんですが、先日こちらでの紹介文を確認していただいたときのやりとりが印象的でした。明星大学のデザイン学部で学生に「教える」と書いたところを、「学ぶ場所を提供する」に修正されていましたね。教えることへの抵抗感のような意識があるのかなと感じました。

萩原:「学ぶための場所」というものに違和感があるんです。何かをやるために主体的に学ぶということは、誰かが知識を教えるとか、これを覚えなければ、ということではない。大学の既存の仕組みの中では限界があるのですが、自分が何かを教えるというより、それぞれが主体的に何かをやるために学んでいくことを、いっしょにやりたいと思っています。
僕自身も、自分が何かをやるために「こういうふうにしなさい」と言われてもできない。知らない事だらけでも、探っていくうちに役に立つ知識ややり方を身につけています。

崎谷:息子の勉強を見ていると、教科書から学ぶ力がないんだなと衝撃をうけました。大人があまりにも与えすぎるから、今の子どもたちは全然できないのでしょうか。

萩原:身に着けてほしい知識を一律的に、何で学ぶのか本人たちがわからないまま学ばせているのが今の子どもの教育。何だかわからないうちに身について、役に立っていることもあるので、この仕組みは否定できないのですが……。
僕もみなさんも、文章が書けて計算ができるのは、無理矢理やらされてきたからですよね。受験のための仕組みになっているのは嫌な感じがしますが、読み書きさえしっかりできるようになれば、その後で何を学ぶかは自分で選べます。

崎谷:教育のいちばんの基本は家庭だと思うんですが、萩原さんがお子さんたちに対して意識されていることはありますか?

萩原:親は子どもにとっていちばん身近にいる大人なので、影響を最小限にしたいと考えています。「こうしないといけない」とはできる限り言わない。もちろんまだわかっていない事もあるので、必要であれば伝えていきますが、「子どもは自分とは別の人格」と思うことを大事にしています。

「つくし文具店」はなぜ拠点になり得たか

崎谷:今回、萩原さんは9つの課題を挙げてくださいました(①自分たちのまちと暮らし、②農のある暮らし、③木でつなぐ山とまち、④身近なものづくり、⑤地域の学びの場、⑥拠点と活動、⑦開かれた住宅、⑧暮らすまちで仕事をつくる、⑨自分たちでつなぐ文化)。

萩原:私が活動している東京の郊外住宅地で何をやっていくのか、多摩の資源やポテンシャルをどう生かしていけばいいか、自分が進めていきたいことを整理してみました。本が書けそうですね(笑)。

崎谷:私が特に興味があるのは、⑤地域の学び場、⑥拠点と活動についてです。「つくし文具店」がどうして拠点になり得たのか、とても興味があります。

萩原:「つくし文具店」はそもそも私が育ち、30歳近くまで過ごした家。サラリーマンを20年やって辞めて戻ってきました。仕事で10年ほど住宅のことに関わっていた時期があり、住む人にとっていい住宅とはどんなものかを考えてきたんです。一度離れて外から見たときに「こういう場所だったから自分は自然とこういう影響を受けていたんだ」ということがわかりました。私が育った郊外住宅地では、仕事はなく、父親もみんな都心に仕事に行くのが普通。近所の人たちがどこで何をしているのか知りません。外からの行き来もない。もうちょっとこの住宅街が開かれるためにはどうしたらいいのかと考えてはじめた場所です。地域に開きたいというよりは、このエリアの外からどうやったら人を呼び込めるかを考えています。

崎谷:日本を俯瞰して見たとき、郊外のあり方に違和感があるんですか?

萩原:そんなに大げさなものではないんです。東京の都心から1時間半くらいの範囲内(埼玉、神奈川、千葉近郊)に住宅を作らざるを得ない状況が戦後に生まれ、その一環として多摩エリアも開発されてきました。「つくし文具店」がある国分寺あたりの郊外住宅もそうやって開発されて増えてきた場所だということを、当たり前のように知りましたが、それを何とかしたい。

崎谷:都心部は自由な空気があって最高に効率がいいですが、それに甘んじているというか、コミュニケーションを作る体力が失われているように感じます。

萩原:1990年代に職住接近の動きがあり、都心に住んでそこで仕事もするという人たちが一見増えました。その逆で、都心には暮らせないなと感じたときに、郊外の住宅地で仕事を増やしていきたい。それが郊外の大きな課題だと思っています。僕自身の場合は、自分が就職するときは疑問を持たず、デザインの仕事は都心にあると思って都心の会社に就職しました。仕事や住まいのことを仕事で考えるようになってから、自分の住まいに疑問を持つようになった。別の仕事をしていたら僕も考えなかったことなので、「生活なんて寝に帰ればいい」という考え方もわかります。

崎谷:これまで考えてきたことを持ち帰って、多摩で再スタートしたんですね。

萩原:暮らしと仕事をこれ以上別々にすることが苦しくなって、自分で生きたいと気づいたのが42歳というのはすごく遅いんですが。16年前、お金になるという意味での仕事はまったくないところへ戻ってきて「つくし文具店」を始めたとき、店番をしながら「これまでのサラリーマン生活20年は何だったんだ?」と思ったんです。とはいえ最初の5年ぐらいは、隙あらば都心に行きたいと思って都心の仕事もしていました。地域でやることはあまりできていなくて、せいぜい拠点を作るぐらいでした。

それぞれが暮らすまちを面白くするために

崎谷: 16年間やってきて、どのような変化がありましたか。

萩原:少しずつ知り合いが増えて、数えるほどですが一緒にやろうという仲間が増えてきたなと感じます。場所づくりは、じつはまだサラリーマンだったときに3か月だけ吉祥寺に拠点を作ったのが最初でした。場を持つとそこに人が来てくれる。出て行くのではなく、待っていて来てもらう、呼ぶ場所があることでわかりやすくなるなと感じます。

崎谷:萩原さんの手掛けた場所づくりが芽生えているというか、同じ思いに共感する人がまた次につなげていっているイメージを持っています。

萩原:いきなり多摩エリアで何かを始めるってハードルが高いんだろうな、とは思っています。
僕がすべてに関与するのも限界があるので、それぞれが自分で何かをはじめればいいのにと常に思っているのですが、その一歩を踏み出せない人がわりと多い。いろいろ学んだり繋がったりはするけれど、なにか始めるときハードルがどこあるのだろうということは常に考えています。
会社勤めをしながらいろいろな活動をする人もいますが、結局辞めないとわからないのかな。会社に属していると、絡みとられる何かがあるんです。

今、自分がやっていることが何の役に立つのか、いまだに自分でもわかりません。なんでこの地域はこんなに面白くないんだろう、どうやったら面白くできるんだろうと悩んでばかりです(笑)。

崎谷:面白さにはいろいろあると思いますが、どういうことが面白いと思いますか?

萩原:僕の感じる面白さは、自分たちのまちや暮らしを自分たちで作っていける感じがあるということ。自分の意思が感じられないとか、やらされている感じでは面白くない。みんながそれぞれ、自分のやりたいことができてあふれている状態になるには、まだまだだなと感じます。
このままではここに住みたくない気持ちが出てきて……隙あらば面白そうな別のまちに引っ越したいと常に思っています(笑)。でもそれもちょっとどうなのかなと。理想的な住みたいまちに引っ越すのは簡単だけど、「面白くないまちを面白くしていくこと」に面白さを見い出せるといいなと思っています。

【萩原 修さんProfile】
1961年生まれ、東京・国分寺育ち。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒業。大日本印刷、リビングデザインセンターOZONE勤務を経て2004年に独立し、「つくし文具店」店主に。シュウヘンカ共同代表として、さまざまな企画、編集、プロデュース、ディレクションなどを手掛け、独自のプロジェクトを多数推進。明星大学デザイン学部教授。NPO法人Mystyle@代表理事などの肩書きも。著書に『9坪の家』(廣済堂出版)など。

つくし文具店HP  http://www.tsu-ku-shi.net/
国分寺さんちHP http://www.kokubunji-sanchi.net/
note  https://note.com/shuhenka/

投稿者

さきや 未央

★ 編集歴25年以上★「旅」と「子育て」雑誌を200冊編集★「観光とまちづくり」の取材を8年間★ 多摩の社長100人にインタビュー